手記集「光」
手記集「光」を発刊しました!
大阪アイバンクでは、ご献眼いただいたご遺族様のお手紙や、角膜移植を受けられた方々の気持ちを手記集にして、多くの方々にお読みいただけるよう冊子を作成しています。
平成27年に発刊しました「光」を、ご希望の方にお送りいたしますのでご連絡下さい。
題字:「光」領木新一郎
(前大阪アイバンク会長)筆
作品の紹介
移植を受けられた患者様の作品
ご献眼頂いた方のご遺族様の手記
豊中市在住 大阪アイバンクの追悼法要でご挨拶された女性より
―両親の献眼で心温かく―
本日の追悼法要に、光を献じた者の遺族、光を受け継いだ者、その仲立ちをなした者の三者が、み仏の前に心を一つに参集出来たことは大きな喜びでございます。お招き有難うございます。
献眼をした本人、昨年11月に81歳で死去した母は、私の子供の頃によくお人形の服や帽子を作ってくれました。もう小さくなった、愛用のセーターの袖の部分やレースのソックスから工夫と遊び心に満ちた、世界で一つだけの衣装を作ってくれました。ピタッとフィットして格好よく、母も私もそれが自慢でした。
そんな母は今、きっとあちらの岸で大満足していることでしょう。母の角膜は燃やされず灰にならずに、世界で一人だけのAさんと世界で一人だけのBさんのお役にたっているのですから。
80歳を過ぎてからの安らかな旅立ちではあっても、親を見送ることは淋しく悲しいものです。しかし、献眼のお蔭で、私は今、辛い虚しい気持ちではなく懐かしい暖かい気持ちで笑顔の母と笑顔の父を思い出しています。
四十九日を迎えた頃、冬の星座を見上げれば、移植を受けられた二人の方も今、嬉しい気持ちで私と同じ様に天の星を仰いでいらっしゃるかしらと、淋しさではなく暖かい思いが胸に満ちて参りました。また、春の桜の頃には、光を得たお二人と、其々の御家族が喜びの中で、私と同じ様に花見を楽しんでおられる事でしょうと、励まされる思いが致しました。
私共遺族もまた、光を授かっていることをお伝え致したく存じます。悲しみを恋しさに、淋しさを懐かしさに変えてくれたアイバンクのお働きに感謝すると共に会の益々のご発展をお祈り申し上げます。皆様、また来年もお互い元気でここに集いお会い致しましょう。有難うございました。
八尾市 妹様にご献眼いただいた女性より
―空を仰ぐ―
今年1月4日、まだお正月気分が抜けない頃、私の妹が他界いたしました。48歳でした。あまりにも突然の旅立ちで、両親も私も悲しみに暮れる間もなく、時間だけが過ぎていきました。妹の所持品を調べますと、臓器提供意思カードが見つかりました。すぐに連絡をとり、角膜だけが提供できることになりました。夜中にもかかわらず連絡を取り合いながら大阪大学の先生とアイバンクの方が、かけつけて下さいました。処置のあと「大変きれいな角膜です。お二人の方に移植することができます。ありがとうございます。」とおっしゃって下さったことが、今も忘れられません。
妹はとても真面目で努力家でした。通信会社で働くかたわら、日頃から読書に親しみ、休日には映画鑑賞をしたり旅行に出かけるのが大好きでした。二人姉妹ですので、私の子育てが落ち着いたら「一緒にあっちこっち旅行しようね。」とよく言っていました。それが叶わなくなった今、残念でなりません。
でも私たちにも希望の光があります。角膜を提供できましたお二人の方がどこかでこの同じ世界を見ているということ、目が生かされているということが何よりの救いです。妹が亡くなってから空を仰ぐのが癖になりました。この空の下にお二人の方がきっとおられると思うと心が癒される思いです。
アイバンクの迅速な対応のおかげで妹の意思を受け継ぐことができ、本当に感謝しております。
角膜移植を受けられた方々が、これからも健やかにお過ごしされることを心からお祈り申し上げます。
ご遺族の友人が詠まれました
短歌
イケメンの遺影になりし哲くん
アイバンクにて
両目は生きる
角膜移植を受けられた方の手記
吹田市在住の男性より
―これからの生き方―
まず、始めにご献眼頂きました故人の方々に深く感謝申し上げますとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
私は3歳の時に激しい下痢の続く腸炎を起こし、その後、その影響からか、両目の角膜が濁り、黒い瞳が灰色になってしまいました。
両親は慌てふためき、近辺の眼科医院を回りましたが、どこも、「この眼は治らない」との診断でした。
そんな中で、大阪市内で代々眼科医院を開業されている先生から、「うちへ来なさい。これ以上悪くならないように。」と言って頂き、それ以来、ずっと先生が亡くなられるまでの数十年間、月1回ペースでお世話になりました。
お陰で、濁った角膜でも、両目とも視力は0.7を維持できていましたが、40代に左眼が、視点の中心が見えなくなる中心性網膜炎を何回も発症し、その都度、治療して頂きましたが、ついに、左眼の視力は0.2に落ち込んでしまいました。
しかし、幸いにも、右眼の視力は、ずっと0.7を維持できていましたので、日常生活には、特に不自由もなく、無事、公務員を定年まで全うすることができました。
しかし、5年位前から、急に、薄暗い階段を踏み外したり、夕暮れ時に自転車で車道から歩道に入る時、かなりの段差があるにも、それを視認できず、思いきり転倒するなど、見えていないための事故が多くなりだしました。
道で出会う人も、かなり近づかないと分からなくなりました。
特に、暗い夕暮れ時とか、天気の良い日差しのきつい屋外では、白っぽく眩しく、極端に、見えにくくなってきたのです。
唯一、頼りにしていた大事な右眼ですので、大きな病院の眼科や眼科医院を回りました。
しかし、どこも、「見えにくくなったのは、角膜の濁りが更に進んだのかも知れないが、これは治療できない。」ということでした。
それでも、何軒目かの眼科医院で、0病院への紹介を頂き、0先生にお世話になることになったのです。 そして、昨年の4月に右眼の角膜移植の手術をして頂きました。
約2週間の入院生活となりました。その間、視力はまだ出ませんでしたが、何よりも驚いたのが、病室から見る景色に、今までに見たことのない明るい空の色、木々の緑の鮮やかなことに、感激しました。
小さな孫が見舞いにきた時、手にしていた絵本を見て、赤、青、緑、黄色は「こんなにきれいな色だったのか!」と感動しました。
今までは、どの色も何枚も重ねたオブラートか、くすんだビニール越しに見る色だったのです。
私にとって、世の中の色彩は、物心ついた時から、手術して頂くまでの六十数年間、偽物の色で過ごしてきたのです。
諺での意味合いが違いますが、まさに視界的には、「目からうろこが落ちる。」そのものでした。
そして、その後、順調に経過しまして、今年の1月末に視力検査では、0.9までに良くなりました。
このように右眼はだんだん良くなり、喜びの毎日でしたが、その良くなった右眼の明るい視界に、左眼のかすんだ灰色の暗い影がうっとうしく感じ、ついつい、人と話すとき、左眼をつむるようになり、相手からその指摘を受けるようになりました。
それを先生に話すと、「視力は、そんなに期待できないが、視野は、確かに、明るくなるでしょう」と左眼も、今年の7月に角膜の移植手術をして頂きました。
今で、約3か月経過しましたが、だんだん良くなってきました。中心性網膜炎を何回も繰り返し、今まで諦めていた左眼ですが、少しずつ、暗い影が消え、視界が明るく、広くなってきたことに大変感激しております。
68歳で右眼、そして69歳で左眼の角膜移植手術を受け、来月には70歳の古希を迎えます。
まさしく余生ともいえるこの年になって、お二人から貴重な角膜を頂いたことにより、私の人生観が変わりました。
きっと、このお二人は、暖かい、やさしい性格のお人柄で、素晴らしい人生を送られた方と思います。
そのお方が私の中で、私のこれからの生き方を見つめておられる。
今、その思いが、大変強くなってまいりました。
大きなことはできませんが、残された人生、人のため、世の中のために役立つお手伝いに精を出し、少しでも、微笑んでもらえる日々が、多くなるよう実践してまいりたいと考えています。
終わりになりますが、ご献眼者様とそのご遺族の方々、そしてその素晴らしい技量で手術をして頂いた先生に、重ねて厚くお礼を申しあげますとともに、ご支援頂きました大阪アイバンク様に心から感謝いたしまして、ご挨拶とさせて頂きます。 有難うございました。
寝屋川市在住の女性より
―来てくれてありがとう―
私の目に来てくれてありがとう
これから一緒に生きていこうね
しっかりしがみついててね
これから心の支えになってね